死にたくない者たち [縦書き版] Ebook Tooltip Ebooks kunnen worden gelezen op uw computer en op daarvoor geschikte e-readers.

横浜精神医療センター・児童精神科の医師芦刈信也は、ある春の夜、愛する妻と十年目の結婚記念日を祝っていた。その時、彼の担当する入院患者小沢輝夫が病院から逃走したという知らせを受ける。輝夫は、極度の不安障害および崩壊性行動障害の治療のために入院していた少年だった･････その数刻後、芦刈家の台所に若い男が侵入してきた。裸の白い胸に赤黒く腫れあがった傷、黒くくまどられた眼、絶望的な暗い表情したその少年は、いま知らせを受けたばかりの逃亡した患者、小沢輝夫だった。「先生は助けてくれなかった」と少年は嘆くように言い、信也の胸に深々と包丁を突き刺したのち、自らも喉を切り裂いて自殺する･････それから一年後、再びふたたび医師として仕事を始めた芦刈信也は黒川春樹という九歳の少年のセラピーを始める。その少年には隠されたひとつの秘密があった･････
その秘密を少年は信也に告白する。「ぼくは死んだ人が見えるんだ」と。さらに「なかには自分が死んだことさえ知らない人もいるよ」と少年は言う。
以来、少年は信也に心を開くようになる。そして少年との出逢いのあとにつづいた数々のセッションというより、心温まる触れ合いがつづいたあと、少年のセラピーを終える。その夜、夕暮れと共に降り始めた烈しい雨のなか、もう二度と会うことはない少年との玄関での最後の別れがきた。
「きみとぼくのことを考えていたんだ。ふたりは、お互いに必要なことはすべて話してきたと思うんだ。もうそろそろ、誰か他の人に秘密を話してもいい頃だよ。たとえば、きみのお母さんに」･･････信也は、つくづく思った。『一年前、あの小沢輝夫は救えなかったけれど、黒川春樹という少年だけはとうとう救うことができた』と。
信也はこの世での最後の仕上げに、そして自分を救うために、愛する妻の須磨子との関係を修復しなければならないと思った。家の玄関はもう目の前だった。そのとき、夜と雨しぶきの中から現れた一台の乗用車が家の玄関の前に止まった。あのアシスタント野郎、桂木真一の車だった。信也は素早く向かいの家のひさしの下に身を隠すと、様子をうかがった。運転席のドアが開き、桂木のすらりと高い身体が出てきた。傘を開いて差し掛けながら、後部座席のドアを開けた。妻の姿が現れて傘のなかに身を寄せた。
「送ってくれてありがとう。それじゃ、明日、お店でね」と須磨子が言った。
「待って、須磨子さん･････さっきのこと考え直してくれないかな？」と桂木。
「真一さん、お願い。わかって欲しいの。あなたの気持ちは嬉しいけど、でも、わたしはまだ夫を愛しているの。だから、あなたと一緒になることはできないのよ。わかって！」そう須磨子はきっぱりと言うと、車から一歩、身を引いた。
「わかったよ。でも、ぼくは絶対あきらめないからね」桂木は激した口調で言った。そして、荒々しく車のドアを開けて運転席に乗り込むと、激しくタイヤを軋らせながら水しぶきをあげて走っていった。須磨子は傘をさしたまま、車道にでると、烈しさを増した雨のなかに佇んだまま、桂木の車が雨と夜のなかを走り去っていくのをじっと見つめていた。信也は複雑な思いで、いまのふたりのやりとりを眺めていた。若い桂木の妻への一途な想いも理解できないわけではなかったが、やはり、絶対に妻を失うわけにはいかなかった。心から深く妻を愛していたからだ。この一年、妻と言葉を交わすことのない日々が続いていた彼にとって、いま妻の言った“まだ夫を愛しているの”と言う言葉が、このうえなく嬉しかった。信也は身を潜めていた家の陰から出て、妻のそばへ行こうと歩き出した。その瞬間、車道に立っている妻の背後の闇の中から現れた大きなトラックがこちらへ疾走してくるのを見た。ヘッドライトの光のなかに彼女の姿が浮き出した。が、妻はまだ気づいていない。「危ない！」信也は夢中で妻に向かって走った。“このままでは、轢かれてしまう！” 必死で車道に飛び出しながら、信也は一瞬のうちに悟っていた･････妻に駆け寄り車道から彼女を歩道のほうへ押し出すことはできても、驀進してくるトラックからは自分が遁れる時間のないことを･････彼は死を覚悟した。
夢中で妻の身体を歩道へ突き飛ばした瞬間、トラックの巨大な車体が凄まじい勢いで自分の身体の上にのしかかってくるのを見た。轟音を響かせながらトラックはあっというまに“彼の身体を”通り過ぎて行った。一瞬の後、彼は車道の上に茫然と佇んでいる自分の姿を見たのだ。トラックはあたかも影を、そして亡霊を通り抜けるように、彼の中を走り去ったのだ。その瞬間、芦刈信也はすべてを理解した･････自分が“何者”かを悟ったのだった。自分が、まさしく少年の言う“自分が死んでいることさえ知らない者”のひとりであり、そして“死にたくない者たち”のひとりでもあったことを愕然とした思いのうちに悟ったとたん、彼は天を仰ぎ、恐ろしい哀しみと絶望の叫び声をあげた。そして、いま自分を歩道へ押し飛ばした目に見えぬものがいったい何者だったのかわからぬままに茫然と歩道に座っている妻を後に残して･････信也は嵐のように吹きすさぶ冷酷な雨の中を駆け抜け、胸を切り裂く凄惨な痛みを抱きながら、遥かな忌まわしい過去へと･････一年前のあの夜、小沢輝夫が彼の胸に刃を振り下ろしたあの夜へと･････そして、彼がしたかったこと、言いたかったこと、それらすべてが永遠に手遅れとなったあのおぞましい夜へと･････彼は漆黒の闇のなかを真っ逆さまに墜ちていった。